2008年06月08日
尾瀬ハイキングの記録
7:07 歩き出し2時間後。回りの山並みを望む。
7:39 三平峠を過ぎる。残雪多し。
軽装のキヨさんとムーチンにはかなりキビシイ・・・。
情報伝達不足だった。。。うむむ、反省・・・。
踏みしめるように、一歩一歩、雪の上へ水平に足を置くのがコツ。
7:51 ああ、雪道の間からようやく、尾瀬沼が見えてきた~~~!
8:59 燧ケ岳を望む。今年は雪が多かったようで水芭蕉は遅めとのこと。
残雪歩きでへとへとになっていたキヨさんが、尾瀬沼を見て、
『うわぁ、ホントきれいね~。でもなんで「尾瀬沼」って言うんだろう~。
「湖」って呼んであげればいいのに、「沼」なんてかわいそう~・・・』
と言った。
確かにコトバの響としては「湖」の方が「沼」より美しいかもしれない。
なかなかおもしろい意見ではあるが、
沼と湖の呼称には確か区別する条件があったような。
それにしても梅雨の晴れ間、絶好のハイキング日和♪
2008年05月11日
野口英世 改名のワケ
連休に母と福島会津へ旅をしました。
猪苗代湖畔にある『野口英世記念館』、生家です。
英世が1歳の時に左手をやけどした囲炉裏がそのまま残っている。
2階には展示室もある。
野口英世は、本名を「野口清作」という。医学生時代に改名した。
その理由は・・・
「当世書生気質」(とうせいしょせいかたぎ)という坪内逍遙の小説(明治18~19年刊行)がある。
当時の書生の生活と芸妓との恋愛を中心に描いたものだが、
その中にマジメに勉強しないで遊び暮らす医学生の放蕩ぶりもあった。
その医学生、名前を「野々口精作(ののぐちせいさく)」といった。
それを読んだ野口清作は、自分とほとんど同じ名前と環境を持つ野々口に
自らの短所を見る思いがして、名前を変えた。
会津の小さな村の極貧の中から、恩師や知人や母の苦労の甲斐あって東京へ出て医学を志す中、
(作中の)遊んで暮らすような医学生と同じになりたくなかったから。
作者・坪内逍遥が、英世の会津時代の恩師にあてた手紙で、
「小説に登場する野々口精作は架空であり、お宅の学生の野口清作くんとは一切関係がありません」
と記した手紙も展示されている。
☆「当世書生気質」が刊行された明治18年当時、英世は9歳。(明治9(1876)年生まれ)。
このエピソードを知らなかったワタシは、おもしろくそれらの展示を見たので、
うちの母にも見せようと振り向くと、
母は、英世の母・シカの手紙を熱心に読んでいた。
「ちょっと、これ、見とき」と母・道子は言った。
母・シカが英世に送った、たった一通残された手紙で、
伝染病、黄熱病研究で多忙を極めアメリカへ渡ったきり戻れない英世に
「帰ってきてくだされ。帰ってきてくだされ。帰ってきてくだされ。帰ってきてくだされ。」と
4回続けて書いていた。
ひたすら会いたい思いを、慣れない筆にしたためたものであった。
☆23歳で渡米後、38歳のとき一度帰国、シカに会うも3年後、シカ他界。

吾子のため 春の野に出でて若菜摘む 磐梯山に雪は降りつつ
そうして野口英世記念館前で、母はタンポポの葉を摘んだ。
そうか今日は母の日だったんだな。
お母さん、タンポポ、フキの葉おいしくごはん包んで頂きました。ありがとう。





